2016/06/17
橋本 聖子さん Interview
「競馬というのは世界最高のエンターテイメントだと思うんです。」
本コーナーでは様々な方から競馬や馬主をめぐるテーマでインタビューを行います。今回はスピードスケート、自転車競技でオリンピックに出場、アルベールビル冬季五輪で銅メダルを獲得され、現在は参議院議員としてご活躍される橋本聖子さんに伺います。
競馬に縁の深いご自身の生い立ちや、選手時代のお話、政治家として競馬に関係する取り組みのお話などテーマは多岐にわたります。聞き手は下河辺俊行さん(日本馬主協会連合会 社会貢献・広報委員長)です。
下河辺俊行さん(以下、下河辺とする):本日はお忙しいところ、お時間をいただきまして、ありがとうございます。先生は北海道の早来町(現・安平町)のお生まれで、小学校・中学校と過ごされていたんですね。
橋本聖子議員(以下、橋本とする):はい、そうです。
私の実家はもともとは農家で、農耕馬がいたり、牛がいたりといった生活をしていたようです。ただそれだけでやっていくのは難しくて、父は昔でいう丁稚奉公に出たのですが、その奉公先が競馬場だったんです。当時は、いろいろな町に小さな競馬場がありました。
下河辺:ありましたね。草競馬をやっていたんですね。
橋本:はい。当時の早来町にも競馬場があって、父はそこを管理していた方に10年くらい奉公し、そこで馬の飼育をしていたのですが、奉公を終えて実家に戻ったとき、自分は馬ではなく、牛をやってみようと考えたようなんです。そのため、私が生まれたときには牛しかいませんでした。朝起きると牛舎に行って搾乳するのが、小さいときからの私の日課でした。
下河辺:ご実家は「牛の橋本」と言われるくらい有名な牧場でしたが、馬を扱うようになったのは、どんなきっかけだったのでしょう。
橋本:当時、実家で農耕馬を使っていたこともあり、あるとき、ばん馬のいい血統の馬を買って、それをばんえい競馬で使うようになったんです。競馬で馬を走らせるという点では、ばんえい競馬が最初でした。私もよく父に連れられて、ばんえい競馬を見に行っていました。
下河辺:そしてマルゼンスキーが生まれることになるわけですね。マルゼンスキーは、日本のサラブレッドの歴史を変えたと言っていい素晴らしい馬でした。
橋本:私が10歳のときにマルゼンスキーは生まれたんです。前年の秋に、軽種馬農協のキーンランド研修ツアーに欠員が出て、それで父に声が掛かり、ちょうど競走馬の生産を本格的にやろうと考えていたらしく、参加したのです。
父は、そこで馬を買うつもりで行ったのではないようなのですが、たまたま見た1頭の牝馬を気に入ってしまったんですね。
下河辺:マルゼンスキーの母親のシルですね。お腹にニジンスキーの仔が入っていた。
橋本:はい。父は、同行していた母の顔色を伺いながら競ったという話なのですが(笑)、当時としては破格の値段だったようですね(注:30万ドル。当時のレートで約9000万円)。
それだけの高額な肌馬ですから、出産のときは大変な状況で、家族等みんなが待機するのですね。ところが同じ日にもう1頭、出産する牝馬がいて、そちらは双子でした。
下河辺:それは大変だ。
橋本:大変な出産が重なりましたが、シルは無事に出産して、生まれたのが牡馬でしたから、みんながすごく喜びました。しかし、双子の方はやはり2頭とも無事にとはいかなくて、1頭は生かせませんでした。
下河辺:双子を両方生かすことは難しいですからね。
橋本:そうなんです。そのときは、喜びと悲しみがいっぺんにやってきたわけですが、馬の生産というのは、嬉しいことだけじゃないんだ、こんなこともあるんだと、子ども心に思ったのを覚えています。
マルゼンスキーは、8戦8勝の成績を残して引退しましたが、現役時代に悔しかったのは、当時、JRAの決まりなのでしかたのないことなのですが、ダービーですね。
下河辺:持ち込み馬ということで、当時はダービーに出られなかったんですね。
橋本:ダービーのときは、中野渡(清一騎手)さんが「賞金はいらない、28頭立ての大外枠でもいい、ほかの馬の邪魔はしないから、一緒に走らせてほしい」と言っておられましたけれど、それくらい出たかったですね。
下河辺:あのときは競馬ファンみんなが、マルゼンスキーがダービーで走るところを見たかったと思います。
先生ご自身は馬に乗ったりはなさらなかったのですか。
橋本:だいぶ訓練はしました。鞍をつけたり、ハミをつけたりは教えてもらいましたが、乗り方は教えてもらえないんですね。「馬に教われ」と言って、馬に跨がっているところに父が後ろから鞭を入れるんです。当然、私はふり落とされるんですが、そんな今では考えられないことをしていました。もっとも、そういう訓練がオリンピック選手になることに役立ったかなとも思うのですが(笑)。