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下河辺:先生は、スピードスケートの選手として冬季オリンピックに4回、自転車競技で夏季に3回と、合計7回出場されていますね。「オリンピックの申し子」とも言われましたが。

橋本:私の場合、父が1964年の東京オリンピックの開会式を見に来なければ、「聖子」という名前にもならなかったでしょうし、まったく違う世界で生きていたと思います。

下河辺:お父様がオリンピックの開会式に感動して、聖火にちなんだ名前をお付けになったんですね。

橋本:そうです。「何の種目でもいいからオリンピック選手になれ。」と言われて育ちました。スピードスケートを始めたのは、小学校2年生のときに札幌オリンピックでスピードスケートという種目がオリンピックにあることを知ってですね。スケートは、小さなときから近くの凍った池でやっていて馴染みもありましたし、これならオリンピック選手になれるんじゃないかと思ったんです。橋本聖子さん

下河辺:スタートが「オリンピック選手になるため」だったんですね。

橋本:ところが、小学校3年から4年にかけて腎臓病を患って、入退院を繰り返すことになってしまったんです。生死の境を彷徨うような病気だったのですが、オリンピックという目標があったので、病気と闘うことができたのかなと思います。ただ、そのときの病気が引き金になって、以来ずっと続発性慢性腎炎という病気を抱えることになってしまいました。

下河辺:ご病気を抱えながらの選手生活だったのですか。

橋本:ええ。その後、高校3年のときにも腎臓病がひどくなって入院したのですが、病院でB型肝炎に感染してしまい、さらに、ストレス性の呼吸筋不全症という病気にも罹ってしまったんです。そんな状態だったので健康への憧れも強くて、よけいにオリンピックへの想いも強くなったように思います。

下河辺:病気を持たれていたからこそ、健康やオリンピックに惹かれたわけですか。

橋本:そうですね。私の周囲を見ても、大きな病気や怪我で苦しんだ選手ほど長く続けることが多いですね。

下河辺:そうなんですか。

橋本:ええ、逆に辞めてしまう人は、ちょっとした怪我で辞めてしまうんですね。私は、腰椎を5か所亀裂骨折したり、転倒して何十針縫うといったこともありましたけれど、怪我というのはいずれは治るんです。治らない病気を抱えている身としては、「どうして一度の怪我くらいで辞めてしまうのかな。」と思っていました。

下河辺:夏と冬であわせて7回というオリンピック出場回数は、日本人で最多ですよね。

橋本:以前はそうでしたが、いまはスキージャンプの葛西紀明選手が冬だけで7回出ていますね。
 最初にオリンピックに出たのが19歳のときだったのですが、本当の意味でオリンピックに出たいと思うようになったのは、実際の聖火を見てからです。最初のときは、「出場することに意義がある。」という気持ちだったのですが、出てみて初めて、「それじゃあいけないんだ、勝たないといけないんだ。」と思うようになりました。
 ただ、呼吸筋不全症の治療にはステロイドを服用するのですが、これは筋肉増強剤なので、競技上は禁止薬物なのです。

下河辺:はい、そうですね。

橋本:治療であれば、申請して使用が認められる場合もあるのですが、検査の数値によって申請できたり、できなかったりするので、基本的には禁止されていない薬品でしか治療ができないんです。
 そこで、3年間かけて体質改善を図りました。予防医学やスポーツ生理学、それから食のあり方といった問題に取り組んで、体質を根本的に変えました。たぶん当時としては、世界でも最先端の医療だったと思います。

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