―最初は栗東の工藤嘉見厩舎に預けられていましたが、なにかきっかけが?
里見:私は馬の世界に知り合いが全くいなかったので、その役員からの紹介です。私自身、工藤先生にお会いしたことのないままお預けすることが決まったくらいで、完全に任せていました。
―でも、最初に持ったミラクルサミーはずいぶん活躍しました。
里見:そうなんですよ。血統(父サンエイソロン)を見ていただければわかるように、高い馬でもなかったですし。それが準オープンまで行ってくれましたから。40回近く走って25回も掲示板に載ってくれて、トータルではずいぶん稼いでくれましたよ。私もまだよくわかっていなかったですし、なんだ、馬ってけっこう儲かるんだな、なんて勘違いしたくらいです(笑)。
―関西馬でしたが、レースはよく見に行かれていたんですか?
里見:阪神のデビュー戦を見に行きましたが、これは2着でした。そこからもしばらくは阪神や京都だったので見に行けなかったのですが、5戦目で未勝利戦を勝ってくれたんです。そうしたら、次は東京を使いますからと工藤先生に言っていただいて。
―今度こそ勝つところを見たいですよね。
里見:ところが運の悪いことに、その頃私はちょっとした病気で簡単な手術をして、入院していたのです。でも、これだけは絶対に見に行きたい。そこで医者も社員もみんなが反対するのを押し切って、ちょっとだけ抜け出してレースを見に行きました。
―すごい。結果はどうだったんですか?
里見:これが、本当に勝ってくれたんです。連勝ですね。口取りをして、すぐに病院に戻りましたけど、やはり自分の目の前で自分の馬が勝ってくれると本当に嬉しいし、エキサイトしますよね。
―そこからも毎年何頭かずつ、という感じで楽しまれていたようですね。
里見:でも、この後はなかなか走ってくれませんでしたね。そうはうまくいかないものです。そのうち、本業の会社が忙しくなったりして、何年か馬を買わない時期もありました。
―やはり長く続けていると、本業との両立が難しいこともあるのでしょうね。
里見:馬はあくまで趣味ですから。本業を放ったらかして、というわけには絶対にいきません。私もその時期は仕事に集中していました。それで、また12、13年前から余裕が出てきたので、本腰を入れて再開したわけです。
―2004年頃にデビューしたサトノケンシロウ(初代)、サトノラオウがその最初ですね。
里見:そうです。会社の大ヒット商品(遊技機)のキャラクターから名前をつけました。特にサトノケンシロウは、デビュー前に育成牧場に見に行ったときにたまたま岡部幸雄騎手(当時)が調教をつけていて、どうですかと訊ねたら「すごくいい馬ですよ」と言っていただいて、喜んだことをよく覚えています。4戦(2勝)したところで、馬房で暴れて脚を傷めて引退してしまったのは残念でしたね。
―この頃は、持ち馬は外国産馬が中心でした。
里見:本格的に再開するときに知り合って、馬をお預けすることになったのが藤沢和雄調教師で、彼に勧められたこともあってヨーロッパの馬を買っていました。イギリスで買ったサトノアマゾネスという牝馬は、3戦(1勝)で引退してしまいましたが、デインヒルのラストクロップで、繁殖馬としても活躍してほしいと考えて購入したんです。期待通りサトノヒーロー(4勝)やサトノフェラーリ(3勝)などを産んでくれています。