2016/03/18
下河辺 俊行オーナー Interview
「楽しむこと、みんなで夢を見ることを大事にしてほしいですね。」
このコーナーでは、様々なオーナーの方に馬主の魅力について語っていただきます。
第1回は馬主として、また生産者としてもご活躍されている下河辺俊行さんをお迎えしました。
―牧場経営者でもある下河辺さんですが、馬主資格を取得されたのはいつ頃ですか?
下河辺 俊行オーナー(以下、下河辺とする):30歳くらいの頃です。務めていた会社をやめて、親父がやっていた北海道の牧場で働くようになったのが25歳。そこから何年かして牧場の代表になって、その後ですね。
―お父様も馬主でした。
下河辺:親父も生産者ですからね。自分で走らせるのはもちろんですが、それ以外にも馬主資格が、というかバッジがないといろいろ不便なわけです。競馬場の馬主席や厩舎に自由に行くことができないですから。
―競馬場のどこにでも入れるあのバッジ(馬主記章)は、競馬ファンの憧れです。
下河辺:現在は僕の他、家内と、息子2人も馬主登録を持っています。僕がメインで、息子はオーナーズクラブを運営しているのでそこの馬、そして家内は様々な理由で他人に売ることが出来ない馬という感じです。
―売ることができないというのは?
下河辺:生産したけれど、疾病があってセリ市に出せなかった馬などです。でも、これが不思議と走るんですよ。それなりに気を使って手当てしながらゆっくり使うのが、かえっていいんですね。現在準オープンで走っているトーキングドラムもそうで、売買がキャンセルになったのを家内が持った馬です。
―下河辺さんご自身、というか「下河辺牧場」の名義で走らせているのは大半が牝馬ですね。
下河辺:うちはマーケットブリーダーですから、馬は基本的に馬主さんに買っていただいて、次の生産のために残す牝馬を自分で所有して走らせているわけです。
―これまでずいぶんたくさん走らせてこられたのでは?
下河辺:230頭くらいは使ってますかね。最初の頃で思い出深いのは、リリーズブーケという馬です。1989年に重賞のサファイヤSを勝ったんですが、その後ようやく身が入って、さあこれからだというところで、トレセンで放馬して重症を負い引退してしまいました。かわいそうでしたね。
―ファンとしては1998年牝馬クラシックで活躍したロンドンブリッジが強く印象に残っています。
下河辺:もちろん僕もですよ。ファンタジーSを勝って、桜花賞は中尾謙太郎調教師と一緒に観ていたんですが、ゴール板から少し斜めになった場所だったんです。ゴールの瞬間は絶対に勝ったと思って、やった! って大騒ぎしたんですが、よく見たらユタカ(武豊騎手)の乗ったファレノプシスにほんの少し差されていた。悔しかったなあ。
―最近は、牡馬でランウェイワルツが活躍しています。
下河辺:僕の所有ですが、じつはこれも他の方に売れない馬だったんです。弱いところがあったし、能力もそんなに高くないかなと思ったので自分で走らせたんです。道営に入れて、2戦目で認定レースを勝ち上がったところで音無秀孝調教師に声をかけていただいて中央で預かってもらうことになったんですが、それが重賞で好勝負したりオープンを勝つようになるんですから、驚かされました。